3月、4月、、終わり始まり、色んな変化の時期ですね。皆さんもそれぞれの目の前をこなしている事と思います。
私は日々のお仕事とは別で家族の中での自己のお役目を果たす時間が多かったです。この歳になると色んな業が増えますね笑どれもこれもヨガの智慧で乗りこなしたいという心持ちですが、実践は本当に大変です。
例えば、、介護、わかっているつもりでも、一番近くだからこそ私にだけみせる本人には何気なくでてくる父の言葉(本人は悪気はない一言なのですが)、時に私に突き刺さる。その度に私はお試しされる。自分の心のざわつきをどう収めせていくか、、でも収まらない時は収まりません💦でも渦に呑まれたくも無い。だからその瞬間から私は自分の心の動きを観て分析(瞑想)します。私はどこに捕まって自分が不自由になっているのか、気づけばそれ(思考)を自分の内から放すだけ。簡単なようで、難しい。でも最近は少しずつその思考ルーティンに捕まる時間も短くなってきています。そんな心が乱れたらヨガの聖典を読み、その智慧を実践してみる。粛々と淡々と、、
まあ、そんな先週でしたが、今朝も起きたてのヨガ時間に読んだ聖典にちゃんと私を諭す言葉が書いてまして、、、全てが腑に落ちることがいくつもありました。
その一説(バガヴァッドギーター)書きます。(2章)
賢明な人が努力しても、かき乱す諸々の感官が、意(こころ)を力ずくで奪う。
(六〇)
全ての感覚器官を制御して、専心(その事に心を集中して行うこと。)し私(真我)に専念して坐すべきである。感官を制御した人の智慧は確立する。(六一)
人が感官の対象を思う時、それらに対する執着が彼に生じる。執着から欲望が生じ、欲望から怒りが生ずる。(六二)
怒りから迷妄が生じ、迷妄から記憶の混乱が生ずる。記憶の混乱から知性の喪失が生じ、知性の喪失から人は破壊する。(六三)
とても深い教えですが、このことから自己を分析し内観してみる。平和な心で父との時間を過ごしていた時に、父にあれもこれも要求をさてた時、私の感覚は乱された。そしてこんなに頑張っているのにという自我がでた(しかもあなたの為に的な)それは収まるどころか亡くなった母の気持ちという勝手に過去の記憶を掘り起こし怒りが湧いてきた。その心の動きがまさに上記の教えに書いてある。
次の教えはこうだった。
愛憎を離れた、自己の支配下にある感官により対象に向かいつつ、自己を制御した人は平安に達する。(六四)
平安において全ての人の苦は滅する。心が静まった人の知性は速やかに確立するから(六五)
その通りだと感じる。一つの一瞬の出来事から多くの気づきを得た瞬間だった。
献身的な愛のつもりだが、与えているという私の自我と、受け取るのは当たり前という父の自我のぶつかった瞬間に起こった親子の不調和音だったのだと分析できました。
右の翼に知性を・・そうだ左の翼はやっぱりバクティ(愛)でなければ、平安な自分は保てないのだ・・気づけた。
このように書き続けているとすごく大変なように感じますが、要は心は雲の様に移りゆくが、奥にある自己がいつも安定し平和で(広い空)であればよいという事。いつでもその神聖な自己(変わらない大いなる存在=空)と意(心=移りゆく雲)を結ぶこと。でもそれはそれは難しい。だからできない時は気づいて笑う(自己への許し)そして取り組む(実践)まあまあ、書けば書くほど、長くなるのでこの辺でやめときます💦(笑)
とにかく、日々の行いの中で智慧を活かしていくこと。それこそがヨガ的な生き方だと改めておもう。アーサナをとることだけで、真のヨガには辿りつけない。子育ても介護も仕事も生活全てが霊性を磨く修行なんですね。
最後にお知らせ
※4月のエムズ休館日→29日30日がお休みです。(27日のオンラインレッスンもお休みです)
※次回のチャリティークラス(ラージャヨガ&FRPピラティス)は5月6日に予定しています。また告知していきます。
今日も善き一日を・・長文読んでくれてありがとうございました。